簡単で旬なものが大好きです^^なので季節感を大切にしております。 レシピ変更等時 ...

三木へ❀竹中半兵衛公のお墓参り①

2014年12月2日 (火)
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「別所長治」公の所縁の地とは前後しますが、途中、「竹中半兵衛」公の所縁の場所へ向かいました。

まず最初に向かったのは三木市志染町安福田にある「栄運寺」

実は、三木市には二か所、「竹中半兵衛」公のお墓があります。

この「栄運寺」の場所はマイナーなので、もう一ヶ所のお墓の方が、よく本などでは取り上げられています。

主道路から外れ、田んぼ道を登ったところにお寺はありました。

すでに三木市役所の観光課での話で、お墓は自由に出入りができると聞いていたのですが、何処が入口かわからず、お寺の方に主人が聞いてくれてる間、私は回りを散策。
お寺横には、個人墓地がありましたが、そこに「竹中半兵衛」公のお墓はないとは思いました。

登り坂は銀杏の木が綺麗に黄葉していました。

暫く下ると…

「あった…!」

手書きでしたが、ちゃんと表記されていました。
横には「ボランティア友の会」と書かれていました。






道は険しいです…びっくり!
すでに獣道化されていると言うか…熊が出てきてもおかしくない程。
傾斜は45°は軽くあります。
秋なのに蚊も一杯いて^^;;
刺されないようにするのが精いっぱい。






2~3分歩いたでしょうか…
するとすでに朽ちかけた「竹中半兵衛の墓」の表示が。





中に入っていくと、少し拓けた場所がありました。









やっと…
やっと…
着きました!(ノ_<。)


入ってすぐ左:多宝塔・お墓*右:愛馬の塚?らしい。
お墓にはお花が添えられていました。

「浄源院殿霊誉道覚居士」

と刻まれているようですが、苔で文字が読めません。


墓石の上部が落ちていました。
(阪神淡路大震災の時に崩れたと言う話だとか…)

その形こそ歴史を強く感じます。

お参りをして、暫くその場の空気を感じました。

誰にも邪魔されず、ひっそりと一人寂しくと言う感じでしょうか…
それが軍師の場所とでも言うかのように。
「竹中半兵衛」公ここにありです。

下りの道も昨晩の雨によって、滑り易く注意が必要です。
それだけ急な場所にお墓があります。




次に向かうはもうひとつの墓地へ。






<何故、三木市には二か所にお墓があるのでしょうか…?>

そもそも、皆さん、何故「竹中半兵衛」公の存在が、この三木市でこんなにも手厚く愛されているかと言う事…

「三木の干殺し」は「竹中半兵衛」公が考えた戦法なので、三木の人達からしたら、地元の領主を苦しめた張本人であるはずです。
が、しかし、領民にとって「竹中半兵衛」公は、特別な存在であったと思います。


「豊臣秀吉」は「竹中半兵衛」の軍師としての役割を任せ、全面的に信用しました。

「三木の干殺し」と言われる戦法は、野戦とは違い地味ながら非常に戦いとしては珍しい戦いです。
現在も注目を浴びている戦いの一つではあるのですが、「三木戦史」には「太平記」の記事を大げさに書いてあるようです。(三木市観光協会発行書参照)
無血戦法であり、糧道遮断により兵力の弱体化を見極め降伏をさせるのが目的とします。
ただ、当然ですが小さな戦いがあり、簡単には降伏したわけではありませんし、犠牲者はある程度出ている事も事実です。

その際、織田軍に敵対した者に対する残虐な行為が、領民を苦しめていた事を憂慮し、「豊臣秀吉」に領民に温情を持って関わる事を進言します。
生前から領民に対して産業復興のために「金物造り」を勧めていたのも実は「竹中半兵衛」だったようです。(三木市が金物の町として栄えた源だったわけですね)

そして、亡くなる前に別所領の領民に対し、特例法を出す事によって復興に努めさせる事を「豊臣秀吉」に約束させます。「竹中半兵衛」亡き後、「豊臣秀吉」はこの約束を守ったと言う事でした。
(表向きは「豊臣秀吉」が実行した事で、三木市が栄えた事には間違いない事ですが、実は陰でこの案を提示し「竹中半兵衛」が助言したことで、三木市は栄えたわけです)

その事が「竹中半兵衛」公のおかげであった事を、領民は忘れてはならないと思ったと思います。
なので、「竹中半兵衛」公のお墓を手厚く今現在も大切に守り続けているのでしょうね。

そして二ヶ所にあるのは、定かではないのですがある本に、徳川の時代に、豊臣政権に関わる箇所の取り壊しがあったような事が書かれており、多分、三木の領民は「竹中半兵衛」公のお墓が壊されるかもしれないと思い、二ヶ所に分ける事によって、徳川の眼を欺きたかった様な事が書かれていました…(うる覚えでですが、そのような事を何処かで読みました)
なので、二ヶ所に分ける事によってこの地を守ってくれた「竹中半兵衛」公のお墓を守りたかったのだと思います。


どちらのお墓が本当なのかと言う事よりも、それだけこの場所で愛され親しまれている「竹中半兵衛」公である事が嬉しいですね^^



(参考)
<岐阜県垂井町に「禅憧寺」とういう菩提寺(我が日記:2014/7/28参照)があり、そこにもお墓があります。
その場所は1579年6月13日に竹中半兵衛公が「三木合戦」最中に亡くなりその後、嫡男の竹中重門が1587年に、陣屋に近い「禅幢寺」に墓を移し菩提を弔ったのですが、どういう形で行われたかはわかりませんが…
掘り返し移し分骨したのか、あくまでも菩提寺としての仮のお墓なのか、わかりませんね。
そして実は滋賀県能登川町の「浄土寺」にも、「竹中半兵衛」の子孫によりもうひとつお墓があるようです。>

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