老舗ヤマヤ醤油7代目の嫁が作る浜松発、発酵万能調味料「浜納豆」のレシピページです ...

社長プロフィール

2015年4月3日 (金)
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ヤマヤ醤油の社長のプロフィールを紹介いたします。
社長が7代目社長を継いだのは若干22歳の時・・色々と苦労されているようです。

【ご挨拶】
はじめまして。ヤマヤ醤油代表取締役「金原利征(キンパラトシユキ)」と申します。
私は静岡県浜松市というところで、「浜納豆」という発酵食品を作っております。
浜納豆は、古来より浜松で作られ続けてきた伝統食品であり、かの有名な徳川家康公が大変愛した食品であると知られています。
浜松は日照時間が全国でも長いことで有名であり、晴れた日の太陽と、「遠州のからっ風」とよばれる強い風が浜納豆の天日干しに適した環境であるといえます。
その他、味噌・醤油の製造・販売も行っております。詳細は弊社サイトをご覧くださいませ。

【大好きだった父と野球】
私は1977年(昭和52年)に浜松市の助信町に金原家の長男として生を受けました。2人姉弟の姉と5歳年の離れた私は、両親、特に父にとっては待望の男の子だったようです。父は「トシ、トシ」と私をとても可愛がってくれたことをよく覚えています。
小さいころより、父の影響で野球が大好きになり、休みの日に父にキャッチボールをしてもらうのがとても楽しみでした。幼かった頃は構えたグローブの所に父が下から狙って投げ、うまくとれない時は、『構えている所にもっとしっかり投げて』と父のせいにして怒り、よく父を困らせたそうです。年に一度地元でプロ野球が開催されるときは、父に連れて行ってもらい憧れのまなざしでプロ野球選手を見ていました。
両親、祖母、そして5歳年上の姉にかわいがられ、幸せな幼少時代でした。
【「浜納豆作りなんて大嫌い」だった少年時代】
私は金原家の長男であることから、自然と周囲から「老舗ヤマヤ醤油の7代目跡取り」として期待の目で見られることなりました。
「なんで俺の将来の事を勝手に決めるのか」「跡を継ぐなんて一言もいっていない」
物心ついた時から跡取りとしてみられることに少しずつ違和感を覚えるようになりました。
浜納豆作りのような汗まみれの肉体労働は格好悪い、一生の仕事にするなんて御免だと思っていたのです。
出来る事なら、当時大好きだったドラマ「東京ラブストーリー」のように大都会に出て、お洒落な仕事、生活をしたいと憧れていたからです。
8歳のころから強制的に手伝わされる浜納豆の仕事も嫌でたまりませんでした。
学校の友達が好きに遊んでいる中で、何故自分ばかり休みの日に早起きをして肉体労働をしなければいけないのか。日に日に不満は募ります。
そんな私の胸中を察してか、優しい父は「会社を継げ」とは一度も言いませんでした。
【突然の父の死、人生の岐路】
高校を卒業し、一浪して名古屋の大学に入りました。憧れだった都会生活はとても楽しいものでした。実家の会社を継ぐことなど頭になく、ただただお気楽な学生生活を満喫する毎日でした。
20歳のある日のこと。実家の母から電話があり、すぐに帰ってくるようにと言われました。
「お父さんが病気になった。余命幾ばくもないかもしれない・・。」と。
まさに青天の霹靂、その時の衝撃は今でも忘れられません。
父の病を悲観する暇もなく、平日は大学に行き、週末は名古屋から浜松に帰り父の代わりに仕事をこなすという慌ただしい日々が始まりました。
母、姉と共に家族一丸となって必死に仕事をこなしました。

一方、父は自分の病名を知らないこともあってか、自分の身体の事より会社の事ばかり気にしていました。「仕事は大丈夫か?」「あれはどうなってる?」病院に顔を見に行っても仕事の事ばかり口にしていました。
そして、3か月後‥

「トシ、仕事の事、頼むな。」

奇しくも、これが父が私に向けて言った最後の言葉となりました。

葬儀を終え、小さな骨片となってしまった父をぼんやりと見つめながら、自分達家族はこれからどうしたらいいのだろうか…呆然としました。
しかし、時間は待ってはくれませんでした。
20歳にして、大学を辞め父の代わりに会社を継ぐか、会社を手放すか、重い決断を強いられることになったのです。

その2に続きます(^^)

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